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レジャー特集 のんびり岐阜まちなか歩き
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こんな所にお城が

切通陣屋跡
'14/12/04
長森城(ながもりじょう)は、現在の岐阜県岐阜市切通6丁目にあった、平安時代、鎌倉時代から戦国時代にかけての日本の城である。
廃城後には同じ地に切通陣屋が築かれる。

文治年間1185年、長森庄(現岐阜市長森)の地頭の渋谷金王丸が長森城を築城する。
南北朝時代の1339年(暦応2年)、美濃国守護職の土岐頼遠が土岐郡(現土岐市)からこの長森城に移り、城郭としての整備をする。
その後代々土岐氏が城主となる。

1353年(文和2年)長森城が手狭になったため、土岐頼康は川手城を築城、本拠地を川手城に移す。
長森城は土岐氏の土岐直詮が城主となる。
土岐氏は以後川手城を本拠地とする。廃城時期は不明だが、斎藤道三が美濃国を支配し、拠点を稲葉山城に移した頃と思われる。

美濃国長森庄の地頭となった渋谷金王丸によって、文治年間(1185~90)に築かれたとされるが、定かではない。
長森城が歴史の表舞台に登場するのは、美濃守護土岐頼遠が土岐郡大富から長森に移った、暦応二年(1339)以降のことである。
頼遠は青野原の戦いなどで武名を上げたが、光厳上皇の行列に無礼をはたらいたとして誅殺された。
頼遠の跡は甥の頼康が継いだ。頼康は守護所を川手城に移し、長森城には一族の土岐直詮が入った。
文和元年(1352)、長森城は南朝の軍勢の攻撃に遭った。

また応永六年(1399)には、大内義弘の反乱に呼応した肥田満康らが長森城に入り、守護土岐頼益は出陣先の和泉から帰陣してこれを討った(長森城の合戦)。
戦国期に斎藤道三が美濃の支配を確立し、川手城を廃して稲葉山城に移ったのに前後して、長森城も廃城になったものと思われる。
江戸時代に入り、享和三年(1803)に美濃国内1万8000石に加増転封となった安藤信成は、かつての長森城址に切通陣屋を設け、明治維新まで安藤氏が支配した。

岐阜市指定史跡、切通陣屋跡(案内板による)
宝暦5年(1755)安藤信成(のぶひら)は、父信尹(のぶただ)の跡を継ぎ加納藩主となったが、翌6年陸奥磐城平に移封となった。
これは信尹の不行跡にともなう、幕府の処置としてなされたももであった。
その後老中となった信成は、享和3年(1803)11月美濃国内で1万8千石余(厚見・方県・葉栗・本巣、四郡の一部)を加増され、再び美濃との関係を持つにいたった。
平藩は、美濃領支配のため切通村に陣屋を設け、郡奉行二人、代官四人、与力五人、同心五人など二十二人ほどが詰めていた。
平藩による支配は、飛び地支配の問題が多く、文政8年(1825)には長森騒動が起きている。
切通陣屋は、安藤氏7代にわたり67年に及ぶ支配を行ったが、明治に至り廃藩と同時に廃止され、笠松県に統一された。

長森城、切通陣屋の形跡は全く無い。旧中山道の近くにある切通観音とその周辺が址である。石碑等が残っている。

名鉄電車、各務原線切通駅下車徒歩約5分程度。
 
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