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レジャー特集 のんびり岐阜まちなか歩き
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本当にひと晩で?

墨俣城
'15/04/10
織田信長公が岐阜に入城1年前、永禄9年(1566年)木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城。
その城跡に当時の砦のような城ではなく、地域住民の永年の夢だあった城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)が、平成3年4月に開館されました。

史実については、太閤記や断片的資料で概要を知る程度でしたが、昭和52年に愛知県江南市の旧家に伝わる前野家古文書の中から、墨俣一夜城に関する貴重な資料が紹介され、その全貌が明らかになったそうです。

墨俣一夜城(歴史資料館)では、この資料に基づいて墨俣築城と秀吉の歩んだ道を中心とした展示構成とし、太閤・秀吉についての学習の場として広く活用していただけるようになっています。

とは言うもの一夜城は伝説の部分が多く実際はっきり分かっていません。
信長公は織田勢の美濃攻略として墨俣への築城を考えました。
しかし、敵地での築城となるため困難が予想されました、信長公の重臣佐久間信盛や柴田勝家が築城を試みたが斎藤勢の攻撃・妨害により相次いで失敗しました。

このとき、木下藤吉郎がこの難工事をかって出て信長公の許可を得て築城に挑んで、成功させ織田家中で頭角を現してきました。
藤吉郎は蜂須賀小六正勝ら川並衆と呼ばれる人々の協力を得て、長良川の上流から築城に必要な材木などを筏に組んで流し、一夜(?)のうちに城をつくりあげたと言われています、いわゆるプレハブ工法ですね。
このため、一夜城、墨俣一夜城などともよばれる。

前記した資料が、昭和62(1987年)刊行の武功夜話に収録され「前野家古文書」として築城の経緯が詳細に記述されています。
太田牛一が著した信長公記では「洲股(墨俣)要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及び勝利、洲股帰城、洲股を引き払う」(巻首「十四条合戦の事」)とのみあるとされています。
実際のところ築城時期は明確ではなく、もともとあった要害(砦)を修築したものか、また新造の砦(城塞)なのかの議論も残っています。

信長公が美濃を制圧すると、その役目を終えて墨俣城は衰退しました。
信長公記によれば、その後墨俣城は天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いの前夜、美濃を領有していた池田恒興の家臣が修築したとあります。
しかし、その2年後木曽三川の大氾濫により木曽川の流れが変わり、戦略上の重要性が失われて、廃城になったと考えられています。

現在の一夜城は資料館となっており、1階は墨俣の歴史、2階は墨俣城之巻、3階は立身出世之巻、4階は私の一夜城(ギャラリー)、5階絶景墨俣(展望)となっています。

JR岐阜駅6番のりば、名鉄岐阜駅1番のりばからの岐阜バス墨俣行きに乗車、終点「墨俣」で下車、徒歩約5分。
 
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