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レジャー特集 のんびり岐阜まちなか歩き
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十六年のお城

黒野城跡
'15/09/16
岐阜市の北西部黒野地区にある市史跡黒野城跡(くろのじょうあと)
現在は公園として利用されています。

豊臣秀吉が天下を統一した安土桃山時代から江戸時代にかけての16年間、黒野城を中心に城下町が整備され、加藤貞泰公の善政が行われていました。

黒野城の本丸跡は約110m四方の方形で、土塁の高さは約5m、外側は幅約15mの堀に囲まれています。
南西には枡形虎口があり、現在の標柱付近には石垣に囲まれた城門と橋、北西隅と南東隅には土塁が外に張り出し、櫓台が有ったと推測されます。
出入り口南側の公園・橋・土塁は昭和時代に造成されました。

城郭の規模は、東西に約1000m、南北約800m。
本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれ、外堀は防御に適した凹凸形状。
要所には神社や寺院が配置されていた。
城郭は二ノ丸、広小路、役所、道場、蔵屋敷など城の施設と家臣196家の屋敷などが並び、各屋敷には家臣家来やその家族などが住んでいた。
南西側には、15町名の町屋敷が整然と配置されたと推測できます。

加藤左衛門尉貞泰公
天正8年(1580)加藤光泰の嫡男として現在の滋賀県で生まれる、光泰が文禄の役で亡くなり文禄3年(1594)15歳で家督相続し、美濃国黒野4万石に封じられ黒野城を築く。
関ヶ原の戦いでは始め西軍に属したが、後徳川家康の先陣として働き本領を安堵させた。

貞泰公は、弟の平内を家康の元に人質として送り忠誠を誓い、関ヶ原の戦いの勝利により平内は濃州大野郡など3641石を拝領した。
貞泰公は城下町を整えると共に、治水事業を行い領内の生産性を高めたが、慶長15年(1610)2万石増加され、伯耆国米子藩(鳥取県)6万石に封じられ、黒野城は16年の期間で終わる。
その後、大坂の陣(冬・夏)の功績などがあり元和9年(1623)江戸にて44歳で亡くなりました。

JR岐阜駅より岐阜バス黒野線(約30分)黒野城跡前下車徒歩約5分
駐車場はありません、ただし土日祝は平成医療専門学院の厚意により駐車場利用可能(不可の場合も有り)
 
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