
土田(どた)城址は文明年間(1469~1487)頃に土田氏により築かれたとされています。

弘治2年(1556)土田源太夫が明智城において討死にした後は、丹羽郡小折城(江南市)の生駒氏に養子となっていた親重・親正が城主となり、親正は織田信長公に仕え、天正2年(1574)には土田城を去ったとされています。
後に豊臣秀吉に仕え各地に転戦し、天正15年(1587)には讃岐丸亀城主となりました。

約10m四方の小規模な曲輪が南北に2面配されています。
土田氏や生駒氏は山麓の居館に居住し、合戦の際には土田城に立て籠ったと考えられています。

標高172m4つの峰からなる土田山のそれそれの峰に主郭・出丸が築かれた城で、一番西の峰に主郭次の峰に大手曲輪、そして中曲輪と並び一つ谷を経て東の峰に出丸が配置されています、峰の山頂部分を削平しただけに曲輪一つ一つは狭くなってるそうです。

織田信長公の生母土田御前はこの土田氏の出自とされています。(異説有ります)
土田御前は織田信秀の継室、実名は不詳で別称は花屋夫人と称されていました、土田政久(まさひさ)の息女とされています。
うつけと呼ばれた織田信長公を嫌い、品行方正である弟の織田信行を可愛がったと言われています、信行は信長公への反逆を図り誅殺されました、大河ドラマ麒麟がくるでも描かれてます。

土田御前の父は土田政久(まさひさ)とされています、その父は土田秀久(どたひでひさ)で、秀久の母は明智氏(明智長山城主)の娘とされています。
父と同様に親類筋である土岐氏庶流の明智氏に仕えていたことになります、仕えていたのが明智光継に該当する等の説があり、孫が明智光秀です。

生駒親重と言う名前が上記に出ていますが、土田政久の子あるいは土田政久と同一人物と言われています、生駒豊政の養子になったそうです。
生駒豊政には生駒家宗と言う実子がいました、家宗の娘が信長公の側室吉乃で嫡男である織田信忠を産むのです。

織田家、土田家、明智家のつながりが入り乱れています、本能寺の変の明智光秀が織田信長公を討った理由は諸説言われていますが、その辺が絡んでいると恐ろしいですね。

名鉄広見線可児川駅~徒歩約20分(登城口)
土田御前の像は近くの湯の華市場前です。

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