弥八地蔵
弥八地蔵は駅付近などからタクシーに乗って、柳ケ瀬の北側飲屋街に向かう人は、「弥八の前」と行き先を告げる位有名な目印です。
入口には、かって高さ10mにも及ぶ大きな地蔵像がありましたが、老朽化のため現在山門に建て替えられました。
何故ここの地に地蔵があるかというと、織田信長公の時代にさかのぼります。
織田信長公に仕えていた加賀野井(現羽島市)城主・駿河守重信の子息弥八郎という者がいました。
弥八郎は、石山本願寺の末寺西方寺で遊んださい、香炉鉢で魚を焼くなどという乱暴者でありました。
信長公の命を受けて、全国統一に反対する僧侶が立てこもった寺に火をつけ、そのご本尊を槍で突きました。
本当に信長公は焼き討ちが好きですね。
すると、そのご本尊の胸から鮮血が出弥八郎に降り掛かりました。
それ以来自分が行ってきた悪さを反省し、改心した弥八郎は仏の道へと進みました。
戦いで亡くなった者を敵味方亡く弔おうとしましたが、信長公はそれを許さず墓を作るなら岐阜城より見えない所へ作れと言われ、京都永観堂(禅林寺派浄土宗)の誓安寺を伊奈波より移して現在の柳ケ瀬近くに作りました。
六体の地蔵が置かれそのうち残った一体が弥八地蔵だそうです。
江戸時代になりこの地は墓地であり刑場としても使われることがありました。
そのため地蔵尊が供養のため置かれるようになりました、その因縁から人々はあらゆる願いを叶えるため地蔵を祀って参詣しました。
明治になり近くに歓楽街(柳ケ瀬)ができ、商売繁盛や水子の供養などの願いを持った人が参詣しました。
その中心に弥八地蔵・水掛地蔵・子安地蔵があり、100基以上の数の水子地蔵などが供養されています。
現在、境内の奥に石地蔵が安置されていて、かつては花柳界の信仰が厚かったところで、境内には料理屋の小店が軒を連ねている不思議な空間になっています。
それにこの地蔵に歌があります、弥八の地蔵さんとして歌い継がれていくのでしょうか。
「弥八地蔵のテーマ」
弥八の地蔵さん
笑ってる
静かに街を
見つめてる
柳が風に
揺れている
命と心
つないでる
空を仰いで
ふと立ち止まり
流れる雲に
ただ手を合わす
弥八地蔵、柳ケ瀬の北側若宮通り沿いにあります。
明徳自治会連合会の聞き取り調査資料などを参考にしています。

「のんびり岐阜まちなか歩き」 を案内します、チャラヒです。
岐阜のまちをのんびり歩いて楽しんでいただける、観光名所・岐阜のグルメスポットを普通のおじさんの目から案内します。
コメントを残す