岐阜公園
岐阜公園は織田信長公が居館を構えた地として知られています。
いまからおよそ約440年前、織田信長公は美濃を治めていた斎藤道三公の孫、龍興(たつおき)を追放し、みずからの本拠をこの岐阜の地に移したのでした。
それから2年後の永禄12(1569)年、岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、その記録の中で信長公の館を「宮殿」と称し、華麗な内部の様子を紹介しています。
信長公居館跡の入口部分は発掘調査の結果復元整備され、現在見学することができますが、館の姿や配置など居館の多くの部分はまだ謎のままです。
その発掘調査の案内所が岐阜公園の北側道路(金華山トンネルの道路)から入ったすぐにあります、目印は「楽市楽座」と書かれた看板です。
中には、発掘から出てきた資料や発掘場所の模型などで、現在の状況などが分かります。
重要なものは写真となってます、そのものは歴史博物館などに保管され調べられています。
発掘調査が改めて始まったかというと、1984年 岐阜市制100年記念事業として岐阜公園内に信長公居館を再現する計画が持ち上がりました。
その再現にあたり発掘調査による建物跡などの確認が必要となり、 その伝承地である千畳敷で初めて調査が実施されることになったのです。
1984年11月12日発掘調査が開始され、初めて板状の巨石が出土します、それから約2年半の間調査が進められ、 他に例をみない巨石を並べた大規模な虎口や通路が姿を現しました。
それはフロイスの記述にある 「おどろくべき大きさの裁断されない石の壁」というものでした。
はじめ発掘調査が行われたは、千畳敷と言われている巨石を並べられていた通路は終了していて、現在整備されてます。
この巨石は、居館の入口を象徴するものと思われます。
その上、山になっているところを現在調査中です。
ルイス・フロイスが書いた「宮殿」と言うものを解明しています、四階建ての建物があったと言うことでしたが、その建物も金華山の斜面を利用して造られたと思われることが分かってきました。
庭園と思われる跡など出てきて、それも幾つもあって信長公のおもてなしの場だったのではないかと考えられてます。
岐阜町からは金華山麓にあって四階建ての宮殿に見えたのか知れませんが、平面的に見ると、巨石の出てきた千畳敷から段々にはなっていますが、広いお屋敷だったのでしょう。
発掘現場は柵の外から見学出来ます、調査の報告などの現地で新たなことが分かった時行われます。
しかし、普段は何をしているのかなかなか分かりませんので、発掘調査案内所の資料を確認したり、そこの職員にお尋ね下さい。
まだまだ新たな発見が出てくるかも知れません、楽しみですね。
(岐阜市社会教育課資料を参考にしてます)

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