円徳寺
岐阜城主であった織田信長公や孫の秀信ゆかりの寺で、上加納村長旗(現在の岐阜市長旗付近)にあった浄泉坊が前身といわれています。
比叡山の寂円律師が平家の西海に走った寿永2年に長旗の地に法泉寺を創建する。第二世寂照が親鸞聖人に帰依して真宗に改宗し常泉坊の名をたまわる。 天文16年秋、織田信秀の軍、稲葉城斎藤道三を攻め大敗し、犬山城主織田信康ら五千人戦死し合葬して織田塚と称す。
織田信長、永禄7年稲葉城に入城し、その本陣の跡(いもあらいの里)四町四方をこの寺に寄進し、その門前に楽市楽座を開く。 関ヶ原の前戦に岐阜城落ち、城主織田信秀、この寺に来り住職教了により剃髪し仏門に入り紀州高野山におもむく。
と、入り口の案内板に書いてあります。
寺の名前で、旧称法泉寺常泉坊とあるが、調べてると上記のように浄泉坊を使っている方が多い。
織田塚については『斎藤Vs織田 戦いの後「織田塚」』でレポートしたとおりです。
その織田塚改装地が入り口を入り右側にあります。
入り口左には、楽市楽座札の碑があります。
左から織田秀信,織田信長公の楽市楽座制札で、真ん中は天下布武の朱印を形取ったもので、朱印の右が池田輝政,池田元助の楽市楽座制札です。
楽市楽座制札・百姓帰住制札いずれも国指定の重要文化財となっています。
楽市楽座とは自由交易市場のことで、信長公が出した制札には
1.諸商人の往来自由・諸課税の免除・身分解放
1.押買・狼藉・けんか等の禁止
1.警察力の排除
を定めていました。
また、百姓帰住制札は、信長公が戦乱で逃亡した北加納郷の農民の帰還を求めたもので、楽市楽座制札と共に戦国大名権力による城下町形成に関する研究上重要な資料だそうです。
本道の横には信長公ゆかりの梵鐘があります。
梵鐘に刻まれている銘には、織田信長公が陣地のあとを寄進してこの地に寺が移転したこと、この梵鐘を鋳造して寄進したことなどが、永禄7年11月11日の日付と共に書かれています。
楽市楽座制札・附織田信長百姓帰住制札の国指定重要文化財の、他梵鐘、銀箔押烏帽子形兜、本願寺顕如消息(書跡)、伝織田塚改葬地は市指定重要文化財に指定されています。
最後の岐阜城主織田秀信は、関ヶ原の前哨戦で敗れこの寺で髷を落とし出家しました。
そんな織田家ゆかりのお寺が、岐阜の繁華街近くにあります、岐阜駅から歩いても10程度のところです。
信長の足跡をたどってみてください。

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